ちっとも悪びれず下唇を突き出すのです。
「馬鹿野郎。貞操観念、・・・・・」
『人間失格』太宰治 本文より引用
はじめに
太宰治の『人間失格』は、主人公の大庭葉蔵が自身の手記を通じて語る自伝的な小説です。この物語は、葉蔵が幼少期から青年期にかけて、人間関係や社会との適応に苦しむ様子を描いています。
この物語は、葉蔵の「恥の多い生涯」を通じて、人間の本質や孤独、自己嫌悪を深く掘り下げた作品です。
太宰治自身の人生と重なる部分が多く、彼の遺書的な作品とされています。
あらすじ
葉蔵は、人間社会の営みに対する理解の欠如と、それに起因する孤独感に苛まれ、道化を演じることで他人との関係を保とうとします。彼は酒や煙草、そして様々な女性との関わりを通じて孤独を紛らわせますが、次第にそれらに依存していくことになります。
彼の生活は次第に荒んでいき、やがてシヅ子やヨシ子といった女性たちとの関係も破綻していきます。特に、ヨシ子の純粋さに触れたことで一時的に救いを見出しますが、彼女が暴行を受けたことで再び絶望の淵に追いやられます。
葉蔵は最終的にモルヒネ中毒となり、精神病院に入院することになります。
登場人物
大庭葉蔵(おおばようぞう)
本作の主人公。幼いころから他人との共感ができず、「道化」を演じることで人間関係を維持しようとします。中学校時代から自己嫌悪と孤独感に苛まれ、次第に酒や煙草、女性との関係に溺れていきます。多くの女性と心中を試みるも、生き延び続け、最終的には精神病院に入院します。
堀木正雄(ほりきまさお)
葉蔵の悪友で、葉蔵に酒、煙草、淫売婦、左翼思想を教える存在。彼は葉蔵にとって一時的に孤独を忘れさせる存在であり、しかしながら葉蔵の破滅的な生活を助長する一因となります。
ツネ子
カフェの女給。夫は服役中で、葉蔵と心中を図るも、ツネ子は死亡し、葉蔵は生き残ります。この出来事が葉蔵の精神状態に大きな影響を与えます。
シヅ子
雑誌社に勤める未亡人で、葉蔵が一時期同棲する女性。シヅ子の子供シゲ子と共に一時的な家庭生活を送りますが、その幸福に耐えられず、葉蔵は逃げ出してしまいます。
ヨシ子
京橋のバアの向かいの煙草屋で働く純粋無垢な女性。葉蔵の内縁の妻となりますが、彼女が犯される事件をきっかけに、葉蔵は再び絶望の淵に追いやられます。
ヒラメ(渋田)
書画骨董商で、葉蔵が警察から出る際の身元引受人。彼は葉蔵の破滅的な行動を見守りながらも支援し、精神病院に送り込む役割を果たします。
マダム
京橋のバアのマダムで、葉蔵が一時期身を寄せる女性。彼女を通じて物語の語り手「私」が葉蔵の手記を手に入れることになります。
「私」
物語の語り手であり、小説家。京橋のマダムと古くからの知り合いであり、彼女を通じて葉蔵の手記を入手し、読者に紹介する役割を担っています。
作品の背景と制作経緯
『人間失格』は太宰治が自身の絶望と孤独、そして社会への適応困難を反映した作品です。太宰治は1948年にこの作品を発表し、自身の内面の葛藤や人間としての存在意義を問い直す試みを行いました。
この作品は、自伝的要素が強く、太宰治の個人的な経験や心理状態が色濃く反映されています。
太宰治自身の生涯には、幼少期から青年期にかけての不安定な家庭環境や、自殺未遂、アルコール依存症といった問題があり、これらの経験が『人間失格』における主人公・葉蔵のキャラクターに投影されています。
特に、葉蔵の孤独感や自己嫌悪は、太宰治自身の孤独感と自己認識の問題を象徴しています。葉蔵は、他人との関係を維持するために道化を演じる一方で、内心では深い孤独と絶望を感じ続けています。
このような描写は、戦後日本の若者たちに強い共感を呼び起こし、個人の苦悩と社会との断絶を巧みに描き出しています。
『人間失格』は、その深い心理描写と普遍的なテーマにより、日本文学のみならず国際的にも高く評価され、多くの読者や批評家から称賛を受けています。
作家のエピソード
太宰治の作家としてのエピソードには多くの興味深いものがあります。彼の人生は作品同様に波乱万丈で、多くの事件や人々との関わりがその背景にあります。
自殺未遂と女性関係
太宰治は数多くの自殺未遂を経験し、いくつかの女性と心中を図っています。特に有名なエピソードは、カフェの女給であるツネ子と共に心中を図った際に、ツネ子は死亡し太宰自身は生き残った事件です。また、彼の愛人であった太田静子や山崎富栄も彼の人生に大きな影響を与えました。太宰と山崎富栄は最終的に玉川上水で入水自殺を遂げています 。
友情と創作
太宰治は多くの作家仲間と深い交流を持ち、その中でも檀一雄との友情は特筆に値します。檀一雄との間で起こった「熱海事件」は、『走れメロス』の元となったとされるエピソードです。また、太宰と中原中也の交流も知られており、酒に酔った中也にからまれるというエピソードもあります。
社会運動と左翼活動
若い頃の太宰治は左翼活動に関わり、弘前高等学校でのストライキなどに参加していました。しかし、彼自身はこれらの運動に対して積極的な参加者というよりも、巻き込まれていたという側面が強かったようです。
太宰治の人生と作品には、彼の複雑な内面や多様な人間関係が色濃く反映されています。これらのエピソードを知ることで、彼の文学作品をより深く理解することができるでしょう。
著者の他の作品の紹介
『斜陽』
戦後の没落貴族の生活を描いた作品。母娘の再生を模索する姿を通じて、戦後日本の変化を反映しています。この作品は、社会の変動と個人の再生を描いた太宰治の代表作の一つです。
『走れメロス』
友情と信頼をテーマにした短編小説。シンプルなストーリーながら、主人公メロスの強い決意と行動が読者に強い印象を与えます。太宰治の明るい側面を感じさせる作品です。
『ヴィヨンの妻』
酒浸りの夫とその妻の物語。妻の視点を通じて、夫婦の複雑な関係性が描かれています。太宰治の独特の視点と繊細な心理描写が光る作品です。
『女生徒』
一日の出来事を通じて、思春期の少女の内面を描いた短編小説。少女の感情や思考の流れがリアルに描かれており、太宰治の繊細な筆致が感じられます。
おわりに
太宰治の作品は、その時代背景や個人的な経験を反映しながらも、普遍的なテーマを扱っています。これらの作品を通じて、彼の文学の奥深さを感じ取ることができるでしょう。
太宰治の独特の文体とテーマに触れることで、より深い理解と共感を得られることを願っています。